大河原峠(おおがわらとうげ)

日本百名登への道

プロフィール


2024年現在、日本国内で、自転車で到達できる標高2,000 m以上の地点は、わずか9つしか存在しない。その中でも、標高第8位の大河原峠は最も知名度が低いかもしれない。八ヶ岳連峰の蓼科山(2,530 m)と北横岳(2,472 m)の鞍部を通過する峠である。

この峠が、あまり多くのサイクリストに知られていない最大の理由は、すぐ南に同じ八ヶ岳を横切り、大河原峠よりわずかに標高の高い「麦草峠」があるためだろう。初めて八ヶ岳エリアを訪れるサイクリストが選ぶ峠は麦草峠であり、大河原峠という名前は耳にしたことがない、という状況になるのである。実際に私自身も、長い間その一人だった。


八ヶ岳は特定の8つの峰を指すのではなく、「八」は「たくさん」の峰の集まりを意味する。その峰々は地質学的な成り立ちにより、夏沢峠を境に北部を北八ヶ岳、南部を南八ヶ岳に分けることができる。

南八ヶ岳は約40万年前の古い火山活動によって形成され、活動休止後、長い時間をかけて侵食が進み、現在のような急峻な地形が生まれた。

一方、北八ヶ岳の山々は、十数万年前から、直近では北横岳が約600年前に噴火したという比較的新しい火山活動によって形成された溶岩ドームが特徴で、緩やかな地形を持つ。

大河原峠と麦草峠は、共に北八ヶ岳の中に位置していて、標高2,000 mを超える高さで八ヶ岳連峰を通過している。


古来、茅野から大河原峠へのアプローチは、親湯温泉を経由し、滝ノ湯川を遡るルートが取られていた。滝ノ湯川の源流は、ほとんど大河原峠の直下にあり、峠付近に広がる大きな河原が、この峠の名の由来と考えられている。

この古道は、延暦21年(802年)に坂上田村麻呂が東征の際に通ったとされる。また、弘仁6年(815年)には、最澄大師が東国に布教拠点を築くため、1000部とも2000部とも伝わる法華経を茅野から上野国へ運んだ道としても知られる。

戦国時代には、茅野の上原城を拠点の一つとして、武田信玄の軍勢が佐久へ攻め入る際、この峠を越えた。茅野から佐久を最短距離で結ぶには、大河原峠を通るルートが最適だったのである。

現在の車道は、古来の道とは大きく異なる経路を取る。茅野からは白樺湖、女神湖まで北上し、蓼科山の北斜面を登る。佐久からの登坂も同じく蓼科山の北斜面を辿るため、大河原峠の鞍部を跨ぐことなく、車道は北斜面だけで完結する。つまり、現在の道は峠を通るが、越えてはいない。

この標高2,000 mを超える峠を最大限に楽しむなら、佐久からのアプローチが最適である。佐久側の道も時代とともにルートが変遷してきた。かつては昭和41年(1966年)に開通した林道鹿曲川線が利用されていた。「蓼科仙境都市」と名付けられた、日本一の標高を誇る別荘地の開発も進み、立科側の女神湖から大河原峠に至る林道夢の平線、林道唐沢線と合わせ、有料道路として整備されていた。

その後、1998年に林道大河原線が『ふるさと林道大河原線』として開通すると1、同じ斜面を登る林道鹿曲川線は徐々に使われなくなった。現在では廃道寸前の状況にあり、通行止めが解除されることはないだろう。

2002年4月、林道の無料化が行われ、「林道唐沢線」「林道夢の平線」、そして林道鹿曲川線に代わった「林道大河原線」を含む総延長38.6 kmが、「蓼科スカイライン」と呼ばれている。その中でも、佐久市街地から大河原峠に至るルートは、この蓼科スカイラインの「林道大河原線」に該当する。


佐久市街地の国道462号線「洞源湖入口」信号が蓼科スカイラインの入り口となる。信号を西に折れて約1 km進み、洞源湖を越えた先から登坂が始まる。全長24 kmのうち、起点から20 kmまでは2車線路。序盤は緩やかな斜面が続き、スピードに乗る。6.5 kmほど進んだ美笹湖を過ぎると、徐々に勾配が増し、本格的な登りが始まる。

変化の少ない樹林帯の中で高度を上げる。16 km付近で突然右側の視界が開け、JAXAの巨大なパラボラアンテナが姿を現す。全行程の三分の二を登ったタイミングで、視覚的な変化が欲しくなる頃に現れる嬉しいサプライズである。ここは遠く下界まで景色が広がる。

アンテナを過ぎると再び樹林帯に入り、これまでと同じような道が続くが、20 km付近の急な左コーナーを境に道幅が狭くなる。ここは、現在使われなくなった林道鹿曲川線との合流地点で、センターラインは無くなるが、舗装は良好で、車のすれ違いも問題なく可能な幅が保たれている。

再び右側の視界が開けたら、正面に蓼科山が現れて山頂に到達する。三角屋根のヒュッテが目を引き、トイレやカフェもある、広々とした駐車場。道中の樹林帯を抜けたことで、より一層の開放感を感じることができる。


私のアタックは2024年8月、お盆を過ぎた暑い1日だった。以前このコースで開催されていた「佐久ヒルクライム」のタイムを参考に、単独での長い挑戦となった。パラボラアンテナを通過した時には、下界まで景色が広がっていたが、すぐ上は厚い雲がかかっていた。

標高2,000 mが近づくと雲の中に入り、視界は閉ざされてしまった。それでも峠の頂上に達すると、再び雲の上に出て、眼下は曇り空、上空は青空が覗くという、標高の高さゆえの天候となった。

丸みを帯びた緩やかな山容の蓼科山を正面に見据えながら、登山に向かうハイカーを見送る。私のフィニッシュ地点は、ここまで車で来たハイカーにとってはスタート地点である。真夏の高原の爽やかな風を全身に浴び、24 kmに及ぶ長距離クライムを達成した満足感を噛み締めながら、再び雲の中へと飛び込むように、立科方面へダウンヒルを開始した。


  1. インターネット上で唯一見つけた情報であり、やや信憑性が薄いが、1995年出版の『定本 信州百峠』の段階では地図上に林道大河原線は描かれていないので、おそらく正しいであろうと思われる。 ↩︎

参考文献

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