プロフィール(一番観音〜コマクサ峠)
- 長野県東御市(地蔵峠は群馬県吾妻郡嬬恋村との県境)
- 標高: 2061 m
- 登坂距離: 15.5 km
- 標高差: 1340 m
- 平均勾配: 8.6%
- STRAVAセグメント
- 私のSTRAVAアクティビティ1, 2, 3
山の険しい日本列島において、最も多く存在する名前の峠は何だろうか?富士見峠や三国峠、大日峠などが頭に浮かぶが、おそらく「地蔵峠」が飛び抜けて多いのではないだろうか。
仏教において現世の苦悩から人々を救済するとされている地蔵菩薩は、古来の日本の道祖神信仰と結びつき、「旅人の守護神」としての地蔵信仰が発展した。旅の危険や道中の困難が多い峠では、旅人たちが安全を祈るために地蔵菩薩を祀るようになった。このことが、地蔵峠が多い理由である。
多くの地蔵峠の中でも、最もスケールの大きなヒルクライムを楽しめるのは、長野県東御市と群馬県吾妻郡嬬恋村の県境に位置する地蔵峠だと思う。そして地蔵峠を経由して、さらに南東へ高峰高原へと向かって4 kmほど、浅間連峰の稜線を登った先にあるのがコマクサ峠である。
コマクサ峠は2061 mという標高を誇り、日本でも数少ない、ロードバイクで到達可能な標高2000 mを超える峠となっている。
コマクサ峠は、地蔵峠なしには語れない。そして地蔵峠は、鹿沢温泉なしには語ることができない。
鹿沢温泉は、『信州加沢郷薬湯縁起』によると、孝徳天皇が白雉元年(650年)に発見したという伝説まで遡ることができる。また、温泉の名前は、日本武尊が東征中のエピソードに由来する。彼が矢で射た白鹿が、傷を癒していた場所が鹿沢温泉とされているのだ。
鹿沢温泉は地蔵峠の上州(群馬県側)に位置するが、信州(長野県側)の所有地として湯治に利用されてきた。これは、江戸時代まで上信国境が定まっておらず、信州が上州へと勢力を伸ばしていたことによる。元禄14年(1701年)、幕府は地蔵峠を上信国境としたが、信州の勢力は強く、鹿沢温泉については、信州の所有地として認めざるを得なかったという。
こうして、鹿沢温泉へ向かう「湯の道」として、信州側から地蔵峠を越える道が整備された。江戸時代、観音信仰が盛んになると、元治元(1864年)から明治にかけて、「湯の道」の安全を祈願して、1町(約109 m)ごとに観音像の建立が始まったという。一番観音が長野県東御市の新張(みはり)に、八十番観音が地蔵峠山頂に、百番観音が鹿沢温泉に建立された。この「湯の道」は、信州と上州を結ぶ重要な道でもあり、湯治客だけでなく、物資の流通にも利用されていたという。
第二次世界大戦後、昭和30年代に入ると、鹿沢温泉周辺は観光地として整備が進んだ。昭和34年には地蔵峠(湯の丸高原)への定期バスが運行を開始、さらに昭和36年には鹿沢温泉までの道路が整備され、アクセスが向上した。「湯の道」は現代に適応しながら大きく飛躍を遂げた。
そして、昭和45年には湯の丸高原と高峰高原の林道が有料道路として一般に開放され、観光地として脚光を浴びるようになった。この林道の最高標高地点に当たるのが「コマクサ峠」である。
「コマクサ峠」という名前は、コマクサが咲くことで有名な「池の平湿原」にちなんだものであろう。いつ付けられた名前か定かではないが、1995年出版の、信州の峠を網羅している『定本 信州百峠 監修:井出孫六・市川健夫』にコマクサ峠の名前は見られないことから、そう昔のことではないようだ。
地蔵峠からの林道は車坂峠のある高峰高原まで続くが、舗装路はコマクサ峠で終わってしまい、その先は未舗装路のままである。
私は三度、地蔵峠に登った。三度目には一続きでコマクサ峠まで登った。三度ともにしっかり覚えている。
初めての登坂は2017年の5月。所属していたロードレースチームの合宿だった。長野市での合宿の初日、東京を車で出発した我々は、小諸インターで高速道路を降りた。ここからは自転車に乗りかえ、自走で長野に向けてトレーニングをしながら移動するということになったのである。
走り出してすぐ、監督から「そこを右」と指示が出て坂を登り始めた。これが地蔵峠であった。5分くらい登ったところで、「湯の丸高原まで10 km」という標識を目にして、これは先が長そうだと感じ、ペースを落としたことをよく覚えている。それでも最後は、遅れる選手が出るような急勾配が記憶に残った。
2度目は2020年の7月。元チームメイトとの登坂だった。この年の春に鎖骨を骨折していた私は、リハビリを兼ねて長野でワーケーションを行おうと考えていた。自転車で東京を出発し、1泊目は高崎へ。そして、高崎で旧友と合流し、長野行きに付き合ってもらった。
長野市を目指す私と、高崎市に戻る旧友。高崎から荒船を越えて、佐久から千曲川流域に出た我々は、地蔵峠で再び群馬側に戻ったのちに、鹿沢温泉で別れることにした。暑い夏の日。サドルトークをしながらゆっくり登ったので、その急勾配ゆえに、かなり低速になり、アブに囲まれて振り払うのが大変だった。
そして2024年の8月が3度目。地蔵峠は経由地に過ぎず、その先の「コマクサ峠」を目指した。その標高差を存分に味わうため、千曲川沿いから一続きに登ることにした。
千曲川にかかる橋から、田んぼを通る農道で線路を潜り滋野駅の前を通過すると、その後は真っ直ぐに、地蔵峠へと続く県道94号線で標高を上げていくことになる。序盤には信号が3つあり、特に国道18号との大きな交差点では、ほぼ間違いなく赤信号で停まることになるだろう。私も1分以上待つことになった。
続く県道79号線との交差点も大きいが、私は運よく青信号で通過した。そしてこのルート最後の信号は「新張(みはり)」の交差点であり、今も立つ「一番観音」が古来の「湯の道」の始点であることを教えてくれる。
新張交差点から先に、信号が存在しないというのは、私たちサイクリストにとっていかに幸運なことであろうか。ここから先「湯の道」の登坂と無心に向き合うことができる。
新張交差点から地蔵峠までは約11 km。平均勾配は約9%という強烈な激坂が続く。新張までの登坂で十分にウォームアップが完了した私は、体力を使い切ってしまわないように、しかしギリギリまで追い込みながら、地蔵峠に到達した。勾配は厳しいが、しっかり整備されたこの道路は道幅や路面に不安がなく、本当に走りやすい。
地蔵峠の八十番観音を右に曲がると、コマクサ峠に向けてはセンターラインが無くなり、道幅が少し狭くなる。しかし路面は良好で走りやすい。勾配も急勾配一辺倒から、少し緩い区間が混ざり始める。
それでも、ここまでの疲労に加えて、標高2000 mと言う低酸素環境下で、全く楽はできない。総じて、休みどころのない素晴らしいクライミングルートである。
千曲川から実に18 km以上、1500 mの標高差を登り切った。登坂前には見えていた山頂付近は、すでに雲の中で眺望は得られなかった。それでも十分に心が満たされるスケールの大きな登りであった。
唯一残念だったのは、今はなき「コマクサ峠」の看板である。頂上の「池の平インフォメーションセンター」で確認したところ、かつて確かに看板は存在したが、今はなくなってしまったという。サイクリストからたまに聞かれることがあるそうだ。
一時、観音像は数を減らしたという。古来の「湯の道」から、現在の県道への主要ルートの変更に伴う紛失や、地蔵峠へ自動車でアクセスが可能になったことによる盗難が原因である。しかし、1981年に新たな寄進者を募り観音像が復元され、現在は100体しっかり揃っている。
県道は急斜面を九十九折で進むため、元来の「湯の道」より距離が長くなり、それに伴い観音像の間隔も一町より長くはなっているものの、これほど趣のある「キロポスト」は日本中探しても見つからないだろう。
観音像の数が元通りになったように、「コマクサ峠」の看板の復活に向けて何らかの動きが取れるのではないか、と考えている。いつの日か、再びこの峠を訪れ、「コマクサ峠」の看板とともに愛車と写真に収まる日が待ち遠しい。
参考文献
- 信濃の峠路 茂木住平編著
- 信州の峠 市川 健夫 著
- 定本 信州百峠 監修:井出孫六・市川健夫
- 鹿沢温泉国民保養温泉地計画書
- 信州花岡果樹園
コメント