神坂峠(みさかとうげ)

日本百名登への道

プロフィール


関西から内陸を通り、関東地方へ向かうとき、真っ先に思い浮かぶのは中央道だろう。もう少し時代を遡って、中山道と言う人もいるかもしれない。それよりずっと昔、奈良時代や平安時代には、畿内から東北までを結ぶ東山道が、主要なルートとして使われていた。

大宝律令(701年)により、大和朝廷は7本の官道を整備した。その中の一つである東山道は、滋賀県瀬田から宮城県多賀城までを結ぶ約1000 kmに及ぶ道である。この道は、軍事や流通のために活発に利用され、平安時代には往来のピークを迎えた。そして、この東山道で最大の難所とされたのが、神坂峠だ。その急峻な地形と大きな標高差から「神の御坂」と呼ばれ、荒ぶる神が住む峠と恐れられていた。

その厳しさを物語るエピソードがある。平安時代初期、天台宗の開祖である最澄が神坂峠を越えた際、疲れ果てた多くの旅人を目にし、峠を越える際の休憩所が必要だと考えた。そこで、飯田側に廣拯院、中津川側に広済院を建てたと伝わる。その縁から、現在も当時と同じ場所に建つ廣拯院は、2000年には天台宗の総本山である比叡山から『信濃比叡』と名乗ることが許されている。

最澄の巨像が立つ信濃比叡・廣拯院。

神坂峠の歴史は東山道の時代より遥か昔、縄文時代にまで遡る。また、記紀(古事記・日本書紀)にも登場し、大和武尊が東方遠征の帰路に神坂峠を通ったという伝説が残されている。峠越えの際に、山の神が白い鹿に姿を変えて峠越えを妨げたが、大和武尊は噛んでいた蒜(ニンニク)を投げつけて退けた。その後、道に迷った大和武尊の前に、白い犬が現れて道案内をしたことで、無事峠を越えることができた、という苦難の峠越えが描かれている。

神坂峠の飯田側の麓に位置する昼神温泉の名前は、この「蒜噛=昼神」が由来だとされている。

平安時代以降には、数多くの書物に、都を出て神坂峠を越えた先にある園原(現在の阿智村)が数多く登場する。その中でも特に有名なのが、箒木と呼ばれる檜の大木である。この木は、遠くからはよく見えるのに、近づくとどの木かわからなくなる不思議な木として、恋の和歌に詠まれた。遠くから見ていると気があるように見える人が、実際に近づくと会ってさえくれない、という気持ちに重ねたものである。箒木は残念ながら、昭和33年の台風で倒れてしまったが、その株からは新たな二本の木立が伸び始めている。

箒木の折れた株からは、二本の新たな木立が天に向かって伸びていた。

神坂峠は、かつての旅人にとって外国の入口のような場所だったのであろう。都を出て標高1500 mを超える神坂峠の先に広がる異国の地。文人たちは実際にその地を旅し、また話を聞き、それを作品に反映させたことは容易に想像できる。


私は二度、中津川からこの峠を登った。一度目は2010年頃のことだったと思う。所属チームの本拠地が飯田にあった時に、大平峠をこえて伊那谷から木曽路に出たのちに、神坂峠をゆっくり登った。山頂から飯田側に下ろうと考えていた私の計画は、閉ざされたゲートに打ち砕かれた。来た道を引き返すことになり、日没直前に飯田に辿り着いた記憶がある。

二度目は2023年。中津川滞在中に、ピストンにてタイムアタックを行った。35度を越えるような猛暑の1日であった。

中津川市街地を出て、中山道を北へ進む。江戸の町並みを楽しめる馬籠宿に向かう観光客の流れから逸れて、中津川温泉方面へと進路を西に折れる。急に人の姿はなくなる。進むにつれて斜度が増し、道は細くなり、路面は荒れ始める。山深さを存分に味わえる林道のお手本ともいうべき、このような登坂が私は大好きだ。

スピードが落ちて、呼吸が乱れ始める。容赦無く襲ってくる暑さを前に、オーバーヒートに気をつけながら標高を上げた。終盤やや失速したが、大ブレーキにはならずに登頂した。

2024年には、初登攀時に山頂で閉ざされていたゲートの先の答えを見つけるために、飯田側からのアプローチも試みたが、途中で通行止めの看板とともに、路面はグラベルに変わり、ロードバイクでの登坂は難しいことがわかった。


神坂峠の険しさにより、中山道は木曽路へとルートを変え、峠は次第に廃れていった。中央本線や飯田線の開通、中馬から車や鉄道への輸送手段の変化とともに、木曽路と伊那谷を結ぶ役割は大平峠や清内路峠へと移り、神坂峠を越える人は誰もいなくなった。

しかし、昭和50年8月に全長約8.5 kmの恵那山トンネルが開通した。開通当時、神坂峠の直下を貫くこのトンネルは日本最長を誇り、飯田側標高721 m、中津川側657 mにその口を開いた。標高を大きく下げて通行可能となった神坂峠は、平安時代とは全く異なる形で再び木曽路と伊那路を結ぶ主要ルートとして多くの人々が往来するようになった。それが神坂峠だと知らぬままに。

長いトンネルの上には、豊かな歴史を秘めた神坂峠が今も息づいている。繁栄と衰退。時の移り変わりを強く感じるこの峠。変わらないものはない。それでも、縄文の時代から人々が通ってきた神坂峠の旧道を、いつまでも自転車で楽しみたいものである。倒れた箒木の上に、忘れられまいと、新たな幹が伸びようとしているように。

夕暮れの迫る神坂峠。幾重にも重なる山々を縫うように伸びる道が、山の深さを物語る。

参考文献

  • 信州の峠 市川健夫
  • 定本 信州百峠 監修:井出孫六・市川健夫
  • 観光案内所で入手した資料多数

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