富士スバルライン

日本百名登への道

プロフィール

  • 山梨県富士吉田市・河口湖村・鳴沢村
  • 標高:2,300 m
  • 登坂距離:23.4 km
  • 標高差:1,210 m(料金所ゲート通過後から)
  • 平均勾配:5.2%
  • Stravaセグメント
  • 私のStravaアクティビティ (2015年はまだGPSデバイスを使っていなかったため、2016年二度目の参加時のログ)

大学時代に自転車を始めて、すぐにロードレースのプロに憧れた私にとって、富士山五合目のヒルクライムといえば、もっぱら「ふじあざみライン」だった。

日本最大のステージレース「ツアー・オブ・ジャパン(TOJ)」のクイーンステージふじあざみライン。TOJに縁のなかった私でも、実業団レースのカレンダーにこの登坂が組み込まれていたことで、年に一度、この登りに挑むのが恒例だった。

プロを目指して渡ったフランスで夢に敗れ、帰国後は日本のチームでレース活動を続けることになった2015年。チームのスポンサー枠で、「富士スバルライン」を舞台に開催される「Mt.富士ヒルクライム」に出場することになった。こうして、私は初めて富士スバルラインに目を向けた。

1964年(昭和39年)に開通した富士スバルラインが、今のようにサイクリストの注目を集めるようになったのは、この大会がきっかけだろう。2004年に第1回が開催され、コロナ禍による1回の中止を挟みつつ、2025年で第21回を迎える。

「富士ヒル」の名で親しまれるこのレースは、そのステータスを年々高めてきた。

富士ヒルのレース後。富士5合目は、一年で最大の挑戦を終えたサイクリストで埋め尽くされる。

正直に言ってしまえば、富士スバルラインは「退屈」である。

レースでは、スタート直後に急勾配の直登があり、その先に料金所のゲートがある。200円の通行料金さえ支払えば、普段から自転車の通行は可能である。レース以外の登坂時は、このゲートを超えた後から本格的にペダルを踏み始めることとなる。この先にはもう、クライミングを妨げるものは何もない。

スタートから約3 kmほどは、平均7%くらいの登り。その後は勾配が緩やかになり、5%前後の傾斜が淡々と続く。まさに「淡々と」という表現がぴったりで、言い換えれば「退屈」とも言える。道幅は広く、路面も綺麗に整備されていて、景色の変化が少ない樹林帯を、黙々と進む。

この退屈さこそが、富士スバルライン最大の特徴であり、魅力でもある。これほどまでに登坂と、そして自分と、ひたすらに向き合える道はそう多くない。それが、富士ヒルというレースが支持を集める理由のひとつだと思う。コースが主張しすぎないため、レースを作るのは選手自身となるのである。

スタート地点ですでに標高は1000 mを超えており、登るにつれてさらに酸素が薄くなる。標高2000 mを超える頃には息もかなり苦しくなってくる。

フィニッシュまで約2.5 kmの地点で一度平坦区間が挟まれる。天気が良ければ、ここで富士山の頂が姿を見せる。そこをハイスピードで駆け抜け、最後は1 kmに満たない真っ直ぐな急登を踏み切ると、登坂は終わりを迎える。


富士ヒルは、ホビーレーサーたちが目指すヒルクライムレース。プロを目指す選手からすれば「無縁」の舞台とも言える。

2015年。初めて富士ヒルに参加したときも同じだった。所属チームの方針は、あくまでヨーロッパを目指す選手を育てること。スバルラインは長い登りを実戦形式で走れるという意味で、あくまで「練習の一環」として位置づけられていた。そんな感覚で私は富士山へ向かった。

初めての富士スバルラインは冷たい雨。ローラー台も持ち込んでいなかったため、体が冷えないように、スタート直前まで車内で暖を取り、ウォームアップもせずにレースへ臨んだ。

スポンサー枠での出場だったため、カテゴリーは選べず「男子19〜29歳の部」での参戦だった。スタートグループは第4組だったと記憶している。

そして、そこで目にした光景は、私の自転車人生の記憶を塗り替えるほどの衝撃だった。

コースを埋め尽くすサイクリストたちが、一心にペダルを踏み、五合目を目指して登っている。そのなかを「右行きます!」と叫びながら、何百人、いや千人近くのライダーを追い抜いたのではないだろうか。

息遣いまで伝わってくる距離で、無数の選手たちが、己の目標に向けてひたすら登っているのを目の当たりにした。そんな瞬間を経験したのは、後にも先にもこのときだけである。

第4組での出走ということから、走力が揃う選手がいなかったため、スタート直後から完全な単独走。フィニッシュタイムは59分53秒。声を張り続けたせいで、ゴール後には声が枯れていた。

今では1時間を切ると、記念にプラチナ色のコラムスペーサーがもらえることから、「プラチナ」と呼ばれる称号。2014年までは招待選手を除いて誰も達成していなかったタイムである。当然「プラチナ」というステータスは存在しなかった。1時間5分を切ると獲得できる「ゴールド」が最上位の称号だった。

「これは総合優勝だろう」

そう思っていた私のタイムは、最上位カテゴリー「主催者選抜クラス」の中に埋もれることとなった。この年、主催者選抜を制したのは、数週間後に全日本TTでプロ選手を抑えて優勝する中村龍太郎。この年の主催者選抜クラスは、1時間を切るタイムでの戦いとなっていた。

この結果が、ずっと引っかかっていたのだろう。私は翌年は主催者選抜で出場した。春先から好調を維持し勝負に挑んだが、チェーントラブルで脱落。龍太郎もまた、クライマーたちのハイペースを前に勝負に絡めなかった。

スバルラインのような緩い登りでは、龍太郎のようなスプリント力のある選手がゴール勝負に残ることがある。

「いかにハイペースに持ち込むか」

その重要性を、多くのクライマーに強く意識させるきっかけを作ったのが、彼だったように思う。

これをきっかけに、富士ヒルはどんどん高速化していき、主催者選抜で1時間を切らないことはなくなった。毎年両手では足りない数の選手が1時間を切っている。夢は手が届く目標となった。


その後も私は、90分を目指す選手のペースメーカーとして、何度か富士ヒルに関わった。富士ヒルの参加者はおよそ1万人。毎年6月、全国から集まったクライマーたちが、「富士ヒル」を年間最大の目標として、富士スバルラインに挑む。

プロとか、アマチュアとか、そんなことではない。これほどまでに多くのサイクリストの「頂上を目指す想い」が、一堂に集う瞬間は他にない。

各自がこの日のために積み重ねてきた時間、情熱、願い。富士ヒルにかける想い。そのエネルギーが大きな塊となって、会場で渦巻く。

そのすべてを、富士山は黙って受け止めてくれる。それだけの力が、日本最高峰の富士山「富士スバルライン」にはある。それは間違いない。

2015年、初めて富士ヒルに参加。富士スバルラインへの初挑戦を控えたエクスポで、掲げた私は目標は59分だったようだ。

参考文献

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