落合峠(おちあいとうげ)

日本百名登への道

プロフィール


なんと山深いところであろうか。

見渡す限り、幾重にも山々が折り重なり、それは波打つ大海原のようである。

つい先ほどまで、この波の中で、まるで溺れるようにペダルを踏んでいた。そして、水面から顔を出した途端に、目の前に大パノラマが広がった。

初めて落合峠を訪れたのは2019年4月12日。200 kmに及ぶ山岳ロングライドの終盤、体力を使い切り、歩くような速度でたどり着いたのがこの峠だった。

傾いた太陽に照らされて、色づき始める山並み。私は、それを微かに芽生えた不安とともに眺めていた。

「暗くなる前に市街地に下りられるのか?」

四国の奥深さに、心が震えた瞬間だった。


落合峠があるのは、徳島県三好市の東祖谷(いや)。ここは、日本三大秘境の一つとして知られる祖谷渓の奥に位置する。

この地域の山深さは、古くからの伝承にも色濃く残っている。平家の落人伝説である。瀬戸内海に面する香川県屋島の源平合戦で敗れた平家の落人が、命からがら源氏の追ってから逃げついた先が、この地域だったという。それも十分に納得できる奥地である。

祖谷渓の「小便小僧」。誰もが簡単に大迫力の写真を撮ることができる、おすすめの撮影スポット。

「落合」という名前の由来は、二つの谷が「落ち合う」ところ、ということらしい。東西に走る祖谷川と、北から流れてきた落合谷川の合流点。この谷に挟まれた急峻な山肌に落合集落が築かれている。

落合集落は、標高差390 mにもなる急峻な山肌に築かれていて、驚くような奥地にまで人々が生活している四国を代表するような集落と言ってよいだろう。

江戸中期から昭和初期にかけて建てられた民家が連なるその集落は、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、石垣や畑、家々の配置に、山村文化の知恵が垣間見える。

谷を挟んで向かい側の中上集落「落合集落展望所」から、急峻な傾斜地に築かれた落合集落を望む。左奥に前烏帽子山、右奥に矢筈山が見える。峠道は集落の右手を裏側へと回り込み、この二つの山の鞍部を目指す。

落合峠は、この落合の名を冠した峠であり、標高は1,520 m。舗装路で到達可能な峠としては、四国最高所に位置する。東に矢筈山(1,849 m)、西に烏帽子山(1,670 m)を従えた鞍部を貫き、この二峰の特徴的な山容に挟まれることで、そして峠の標高が高いことで、「落合峠はあそこだ」と見当がつく。


加茂(現・東みよし町)と東祖谷の落合を結ぶ、全線舗装の県道44号線。この道筋は、かつて讃岐からの塩を「仲持(なかもち)」と呼ばれる担ぎ手が背負い、四国山地を越えて祖谷の山奥まで運んだという歴史を持つ。

落合峠を越えるルートは、国道439号線、通称「酷道ヨサク」から分岐する。落合集落の麓で国道を逸れると、そこから本格的な登坂が始まる。序盤は比較的なだらかな勾配が続くが、路面は荒れ気味で、細く頼りない舗装路が樹林帯の中に伸びている。森の中に時折現れる民家や畑は、やがて姿を消し、人々の生活の気配が途切れる。

酷道として知られる国道439号線(通称ヨサク)を折れて、落合峠への登坂が始まる。

進むほどに、勾配が厳しさを増してくる。一方で、道の荒れ方はやや落ち着き、クライミングへの集中力が高まる。静寂の中、山に包まれていく感覚が強まっていく。

そして、突然視界が開ける。先ほどまで周囲を覆っていた木々が消え、空の下一面に笹原が広がる。

その場所が、落合峠である。


私の二度目の落合峠は、2025年6月27日。

今回は体力も、時間も十分。前回のような不安や焦りはない。心からこの峠と向き合い、その魅力をじっくり味わうために訪れた。

落合集落の山肌を進み、標高を上げる。やがて民家は途絶え、多少の路面の荒れや道幅の狭さも、この峠の個性として楽しめる余裕があった。

四国らしい、地味で厳しい峠道。徐々に自分の息遣いだけが周囲を支配する。集中力が高まる。己と向き合う。

突然目の前が開ける。先ほどまで視界を覆っていた木々はどこへ行ったのか、笹原が一面に広がる。空はこんなに広く青かったのか。

「落合峠」と書かれた白い看板を見つめる。

大きな谷を挟んで、向かいの稜線には、三嶺(みうね・1,893 m)や天狗塚(1,812 m)といった、剣山地の高峰が青空に映える。自分の足で登ってきた高度感と、四国の山深さを存分に味わえる。なぜなら、これほどまでに標高を上げてきたのに、周囲には私が今立っている落合峠よりも高い山々が溢れ、幾重にも重なり、そして終わりが見えない。

かつてこの峠がコースに組み込まれた「ツール・ド・にし阿波」はコロナ禍の影響で10年間の歴史に幕を下ろした。素晴らしい看板を残してくれたことを感謝したい。背後に見える三角に尖った小さなピークが天狗塚。

瀬戸内の屋島で敗れた平家の落人が逃げのびた、秘境・祖谷。

海の気配が届かない山奥で、尾根と谷が生み出す大海原に漂流する。登坂に溺れ、ヒルクライムという水中から喘ぐように顔を出す。新鮮な空気を身体いっぱいに吸い込む。それはクライマーにとってこれ以上ない幸せである。

少しずつ落ちつきを取り戻す、呼吸と鼓動に耳を傾けながら、そんなことを考える。

森の中から一転、峠の手前では笹原が広がり、突然景色が開ける。

参考文献

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