プロフィール
- 群馬県中之条町 / 長野県山ノ内町 国道292号線 志賀草津高原ルート
- 標高: 2172 m
- 登坂距離: 27.0 km
- 標高差: 1597 m
- 平均勾配: 5.9%
- Stravaセグメント
- 私のStravaアクティビティ(湯田中)
主要都市や、港、空港などを結ぶ、国の交通や産業に欠かすことのできない道路として、国が政令によって指定した道路が「国道」である。国道は全459路線からなり、その実延長は55,874 kmにも及ぶ(2020年現在)。渋峠はその最高標高地点にあたる。
長野県と群馬県の県境となる渋峠は、交通の要所としての変遷と、地域の文化や経済活動の変化が織りなす長い歴史を持つ。
信仰の地としての歴史は古くにさかのぼり、渋峠からほど近い白根山湯釜付近で、平安末期〜鎌倉初期とみられる笹塔婆(ささとうば)が出土している。
また、建久6年(1195年)には源頼朝が草津から山ノ内町を通って善光寺参詣を果たしたとされ、古くから往来のあった道であったことが窺える。
江戸時代になると、渋峠は地域物流の拠点としての役割を果たすようになる。上州からは「沓野道」や「渋陽道」と呼ばれ、信州側からは「草津道」として知られていたこの道は、主に草津温泉に向けて米や油、魚といった物資を奥信濃(長野県最北部)から運搬するルートだった。険しい山道は馬での通行が困難であり、輸送は人力と牛の背に頼っていたことから、「牛道」とも呼ばれていた。
明治に入ると、信越本線(1893年)や草津電鉄の開通(1926年)により渋峠越えの往来は減少した。
しかし、昭和4年に長野電鉄が志賀高原の観光開発を開始すると、昭和10年には長野県と群馬県の協力のもとで、県道中野ー長野原線は再び整備されることとなった。全面改修が進み、昭和40年には「志賀草津高原ルート」として開通。昭和45年(1970年)には、舗装が完了し、国道292号線に昇格。有料道路として営業を開始した。この道の最高標高地点2172 m「渋峠」は国道の日本最高標高地点となった。
平成4年(1992年)には志賀草津道路が無料開放され、渋峠はサイクリストに愛される超級山岳として現在に至る。
渋峠は、群馬県側も長野県側も非常に魅力的なクライミングルートである。私はどちら側も複数回登った。どちらも捨てがたいが、心を鬼にしてどちらか選ぶのであれば、長野県側にしようと思う。
なぜか?それは標高差が大きいからである。群馬県側は長野県原から草津温泉を経由して渋峠に至るルートでも標高差は1300 mを少し超えるくらい。一方で長野側は最後の信号のある湯田中の「道の駅 北信州やまのうち」からの標高差は1500 mを超える。
国道最高標高地点を目指すのであれば、その標高差を存分に味わうために、長野県側を選んだわけである。
昭和初期から長い期間をかけて完成し、平成の頭に無料化された、この立派な国道は、冬季は雪に閉ざされるとは思えないほどに整備された路面で走りやすい。交通量はやや多いが、道幅の十分な2車線であり、車の追い抜きにも怖さは感じないだろう。
27 kmという長い登坂。12 km地点で1 kmほど、16 kmから2 km強の緩斜面や下りを挟むが、そのほかは脚に負荷がかかり続ける勾配が続く。最終盤ではスノーシェードが連続し、冬季の環境の厳しさを想像するとともに、景色が開けてきて、標高の上昇を感じることもできる。
日本国道最高地点は渋峠を少し越えた先にある。「この世」とは思えないような景観が、突然視界に飛び込んでくる。活火山の草津白根山が、火口湖の「湯釜」を中心に煙を上げる。一方でそのすぐそばでは、高い木々のない広大な芳ヶ平が高地特有の湿原を形成する。遠くには赤城山や秩父の山々の姿。私はまだ見たことがないが、天気に恵まれれば、富士山まで見渡すことができるという。
群馬県側を登る場合はこの「あの世」のような景色の中を走ることになる。やはり長野県側も群馬県側も、どちらも捨てがたいのである。
私にとって渋峠は、強烈な寒さとともに今も脳裏に焼きついている。
最初は2018年のゴールデンウィーク、長野県側からのアプローチだった。当時所属していたロードレースチームの合宿で長野市に滞在していた私たちは、ちょうど「ジロ・デ・イタリア」が雪の壁を登る山岳ステージだったことに刺激され、同じような景色を求めて渋峠に向かうことにした。
宿を出た時には既に天気が崩れかけており、峠の麓である湯田中に着く頃には雨が降り出していた。この先の登坂で雪になることは予想できたが、サポートカーが帯同していたこともあり「行けるところまで行こう」と進んだ。
峠の中盤に差し掛かかった。雪が積もり視界が悪いので、サングラスを外す。すると雪が顔に当たり、目を開けていられない。指先は冷え切り、痛みに耐えながらペダルを踏む。
当初の目的であった雪の壁のことなど、とうの昔に忘れていた。
ようやく国道最高標高地点に到達した時には、ペダリングをやめたらそのまま凍りついてしまう、と思うような状態だった。登頂の余韻に浸る余裕もなく、ただ登り切った安堵感とともに車に乗り込んで下山した。このような状況下では、サポートカーなしでの登坂は、途中での撤退も選択肢に入れるべきだと強く感じた。
2回目は2021年4月末、群馬県側からの挑戦だった。寒さに凍えた反省を活かすことなく、失敗を繰り返すことになる。
訓練中の自衛隊の死者1名という被害を出した、2018年1月23日の草津白根山の噴火。この二日前に友人たちとスノーシューを楽しむために、草津白根山へ出かけていた私にとって、このニュースは衝撃的だった。当時利用した白根火山ロープウェーはこの災害を機に廃止されてしまった。
噴火による火山ガスの影響で封鎖された志賀草津高原ルートは、車から段階的に通行止めが解除され、2021年の冬季通行止めが明けるのと同時に、サイクリストにも開放された。待ちに待った渋峠へのアタックである。モチベーションが高いこともあり、登坂に余計な装備は省いた軽装で挑んだのが失敗だった。
雪の壁の中を進む。登坂中であるにもかかわらず寒さを感じながら到達した渋峠の気温は0度。ダウンヒルに入って1分と経たずに、指先の感覚が消え、下山を断念して引き返すしかなかった。
震えながら山頂のレストハウス内のストーブにあたる。指切りグローブと脚を露出したビブショーツの私。渋峠を訪れた厳冬期装備のサイクリストから「その格好で下るんですか?」と驚かれること数回。渋峠に自転車を残して、バスで下山することも考慮に入れつつ、レストランでカレーを食べながら作戦を練った。
売店で防寒用具を探したが、ウィンターシーズンはすでに終わり、必要なものは手に入らなかった。持っていたアームウォーマーと薄手の防風ジャケットを装備して、コロナ対策で携帯していたマスクをフェイスウォーマーとして活用した。売店で購入したレジ袋を即席の手袋にして、観光案内のパンフレットを腹部に詰め込む、という即席の防寒対策を施した。
これが意外にも効果的で、順調に標高を下げることができた。標高1000 mに差し掛かった時、安心感からどっと疲れが押し寄せた。絶景の記憶はなく、ただ寒さとの戦いが脳裏に刻まれた冒険のような一日だった。
そして2024年の9月。久しぶりに渋峠に足を運んだ。まだ寒さに閉ざされる前の渋峠。景色に浸りながら、長い時間を山頂付近で過ごした。「寒さ」でいっぱいだった私の渋峠の記憶に、眺望の素晴らしさが加わった。
日本国道最高標高地点。この魅力的な響きと、クライマーを虜にする絶景を求めて、今日も渋峠には多くのサイクリストが集まる。
参考文献
- 定本 信州百峠 監修:井出孫六・市川健夫
- 日本の道路122万キロ大研究 増補改訂版 平沼義之
- 信州の峠 市川健夫
- 信濃の峠路 茂木住平編著
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