プロフィール
- 静岡県浜松市 天龍スーパー林道
- 標高:798 m
- 登坂距離:7.5 km
- 標高差:727 m
- 平均勾配:9.6%
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脚は限界に近い。
心拍数も最大まで上がりきり、まるで溺れているように呼吸が乱れる。目標タイムに向けてぎりぎりのペースで進めていたヒルクライムだが、ここにきて明らかにブレーキがかかり始めた。
山は甘くない。顔を上げる。目の前には、緩む気配のない急勾配が続いている。
秋葉山。
東海を代表する激坂である。

静岡県浜松市天竜区。
南アルプスの南端に連なる山々の一角、天竜川を見下ろすように標高866 mの秋葉山がそびえている。山頂に鎮座する秋葉神社は、秋葉山そのものを神体山として仰ぎ、火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を祀る。社伝によれば、その歴史は和銅2年(709年)にまで遡る。
古くから信仰の山だった秋葉山は、中世には修験道の霊場として発展した。
その中心となったのが、伝説の修験者・三尺坊である。火生三昧(かしょうざんまい)の修行によって神通力を得たとされる三尺坊は、やがて「秋葉三尺坊大権現」として信仰されるようになった。秋葉山は神道、仏教、修験道が交わる霊場となり、江戸時代には「火防の神」の総本宮として全国にその名を広げていく。
各地から秋葉山を目指す人々が歩いた道は、やがて「秋葉街道」と呼ばれるようになった。
信州と遠州を結ぶこの街道は、もともと塩などを運ぶ交易路でもあり、江戸時代には秋葉詣の道として多くの参詣者で賑わった。街道沿いには宿場が生まれ、秋葉山へ向かう人々の往来が地域の文化や経済を育んでいったという。
しかし、この山には一つの大きな逆説がある。
火防の神を祀る山でありながら、秋葉神社は過去に幾度も兵火や火災に見舞われ、社殿を失ってきたのだ。
そして昭和18年(1943年)には秋葉山の全山火災が発生し、秋葉神社と秋葉寺のほとんどが焼失した。江戸時代の文化9年(1812年)に建立された神門だけが、その大火を免れたとされる。現在の本殿も昭和61年(1986年)に再建されたものだ。
火を鎮める神でさえ、火を完全に制することはできなかった。
それでも秋葉山は、何度でも立ち上がってきた。

現在、秋葉山へ自転車で挑むことができるのが、天竜スーパー林道である。
天竜川に架かる雲名橋を渡ると、いきなり道は山へ向かって跳ね上がる。秋葉神社上社までの登坂距離は約7.5 km。標高差は700 mを超え、平均勾配は10%に迫る。勾配の緩む区間はほとんどなく、一定して厳しい斜度が続く、まさに東海屈指の激坂だ。
古くから人々が歩いてきた秋葉山。現在では西側を迂回した車道でのアクセスが可能となった。しかし、杉木立の中を山頂へ向かうという、この山を登る行為そのものは今も変わらない。
道の両側に立ち並ぶのは、天竜を代表する杉の美林。天竜の林業には約500年に及ぶ植林の歴史があり、江戸時代には天竜川の水運によって木材が江戸へ運ばれた。現在の「天竜美林」も、こうした長い人の営みの上に成り立っている。
均整に立ち並ぶ杉木立。その中を、ただひたすら登る。景色の変化はほとんどない。ただ刻々と変わるのは、荒くなる呼吸、重くなる脚、燃えるような筋肉の痛み。そして、少しずつ削られていく精神力。
「もう限界だ」
そう思ったところで、あれほど頑なだった勾配が、ふっと緩む。
秋葉神社上社。長く苦しい登坂の終点である。

ロードバイクという、人間の力を効率よく推進力へ変換する精密な機械に乗り、パワーメーターの数字を追いかけていると、いつしか「山を攻略している」という錯覚に陥る。自分の脚力で勾配を抑え込み、自分の意思でラインを選び、山を支配しているのだと。
だが、それは錯覚に過ぎない。
激坂が牙をむけば脚は止まり、心肺は限界を迎える。天候も、風も、路面も、ライバルの存在も、そして時には自分自身の身体さえ、思い通りにはならない。
自然とは、本来そういう存在なのだ。
秋葉山は火防の神を祀りながら、自らも火に焼かれた。信仰の中心を失っても、再び社殿が建てられた。
明治期に修験道が廃され、その精神性さえ失いかけても、秋葉山への祈りは途絶えなかった。神仏分離によって秋葉寺が廃寺となっても、秋葉神社は火防の神として信仰を受け継いできた。
秋葉山の強さは、「一度も燃えなかったこと」ではない。燃え尽きても、そこから再び立ち上がってきたことにある。その姿に人々は惹きつけられてきた。
それは、どこかヒルクライムにも似ている。山に跳ね返され、脚が止まり、目標タイムに届かず、敗北感を味わう。それでも、また山へ向かう。私は遠方に住みながら、これまで三度、秋葉山に挑んできた。なぜサイクリストは、わざわざ苦しい坂を上るのだろう。
山を支配するためではない。むしろ逆だ。
自分では決して支配できない圧倒的な存在を前に一歩を踏み出す。その繰り返しの先で、いままでの自分とは少し違う自分に出会うためなのだと思う。

何度燃えても蘇った秋葉山。
人間の尺度を遥かに超える時の流れの中で、幾度となく灰の中から立ち上がってきたこの山は、今日も、己の限界を尽くして登り切ったすべての挑戦者たちを、静かに迎えてくれる。

参考文献

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